春会期を楽しんだ瀬戸芸ですが、せっかくの3シーズンパスポートなので、やっぱり夏も行こう!と計画を立てました。 今回のテーマは「初めての島へ」
2013、2016年通して、まだ行ったことがなく、行ってみたかった 小豆島、大島を訪ねることにしました。小豆島は大きい島だし、一度やってみたかった島ステイ!と意気込んだのですが宿が混んでいて、取れたのは一泊のみ…その後は高松泊。
一日目:大島 小豆島
二日目:小豆島
三日目:なりゆき
物足りなかったら三日目も小豆島でもいいし、または、最初に小豆島に渡ってまる二日滞在して三日目に大島でもいいし… などと迷いながら大まかな予定だけ決めて出発。結局、まずは大島に渡りました。
フェリーを降りて、静かだ、と思いました。港に来ていた何台かの車のナンバープレートには番号ではなく「福祉」という文字。
大島は、他の島とは違う背景を持っています。
島全体が『国立療養所大島青松園』という国立ハンセン病療養所なのです。
島は静かだ、と思いました、最初は。朝早くてまだ、瀬戸芸のインフォメーションも開いてなかったし。うだるような暑さの中、まずは、こえび隊(瀬戸芸のボランティアスタッフ)の大島案内ツアーに参加しよう、と集合場所の社会福祉会館に向かったら、ずっと音楽が流れているのが聞こえてきて。ほら、島内放送みたいなの。『ふるさと』と『乙女の祈り』でした。今のフェリーで着いた瀬戸芸のゲストが歩く中、他には人の気配はなく、スピーカーからずっと流れる音楽…何とも非日常的な…と思いながら社会福祉会館に。とても新しいきれいな建物でした。中に入って、ハンセン病とは、大島の歴史、などの展示を見ました。あと、回復者さんたちの作品など。一応、ハンセン病の歴史、また、以前ドキュメント番組なんかで大島の歴史も知っていたのですが、目の前に突きつけられると、一言では言えない、辛い気持ちになりました。
入口に集合して、大島を巡る、歴史を知るツアーが始まります。半分くらいは外国人ゲストでした。かつて業病、伝染病(実際は風邪よりも弱い感染力とのこと)、遺伝病との間違った知識から差別され、「らい予防法」により療養所に隔離された患者さんたち。1960年には治療法も確立されていたのにその「らい予防法」が廃止されたのは1996年。現在島にいる方たちは高齢と後遺症の治療のため療養所で暮らしています。そこには、もうすでに帰る場所がないという現実もあります。ハンセン病は完治しているので「回復者さん」「入所者さん」と呼ばれます。現在は平均年齢84歳、53人の方がいらっしゃいます。
そんな説明を聞きながら、まず、納骨堂に向かいます。
島を歩きながら説明が続きます。そこで「流れている音楽は盲導鈴であること」を知りました。他にも、そんな広くもない道路の真ん中に白線が引いてあるのは盲導線で、道に柵があるのは杖で確認するための盲導柵。入所者の方はかつてハンセン病の治療が遅れたたために目の不自由な方が多いので園内(島内)に、盲人の方や弱視の方のために設置されているのです。 島全体が入所者さんのための作り、でもこの環境を整えられる意識の時代までにどれだけの人の苦しみがあったのだろう、と思います。
納骨堂には、この島で亡くなった方の引き取り手のないご遺骨、が眠っています。中にはこの島に愛着を持ち分骨されたご遺骨も、と聞くと少しほっとしますが、隔離される時点で死亡届を出されたり、家族に迷惑をかけたくない思いから偽名を使う方も多かったという歴史があります、骨になっても故郷へは帰れなかった方たち、その胸中はとても想像できるものではありません。
次に、宗教施設などをまわり、アートエリアへ。
瀬戸芸が担ってきた役割や作品の背景と、最後に、解剖台の説明を聞きます。解剖台、以前、ドキュメント番組で見たのは、このエピソードでした。
見ることが辛い負の遺産、何回も周りをぐるぐるしながら近寄って……向き合いました。ハンセン病の歴史も大島の歴史も、頭で知るのとは違って、実際に足を踏み入れてみると、その負の歴史に押し潰されそうになり、結構長い時間引きずりました……。
瀬戸芸が始まる2010年の前の2007年から芸術祭に参加する準備を丁寧に丁寧に始めていて、キュレーターの北川フラムさんも「大島が参加しなければ瀬戸芸は成り立たない」と重要視していて。昼食を取ろうと入った売店の人たちも、そこに来るお客さん(医療従事者の方たち)も明るく普通で、入所者さんはじめこえび隊の人たちも「悲しい思いで帰ってほしくない」と明るく活動をしているのに……訪れるほうがこれじゃだめですね。本当に貴重な体験をしました。また、来よう、と心に刻みました。